関心を持つことからはじまる
次の一歩、ということのヒントでは、講演会の時に若い人から「自分は何かをしたいんですけれども、何をしたら良いですか?」というかなり大掴みな質問がありましたけれども、中村さんはそれに対して、「何もしないのではなくて、何かに対して関心を持ち続けることです」、それがはじまりの一歩になるということをおっしゃっていました。何かに対して関心を持ち続けて、調べてみたり、人に話を聞いてみたりすることが道を切り開く一歩になるという。
中村その通りですね。だいたい我々でも、そうではないですか。これを勉強したいと思って、資料を買ったりしますよね。だいたいほったらかしにされています(笑)。しかしある時、自分がこれをしなくてはいけないと開いてみる。こういうことから始まるというのは、割と普通にあるのではないかと思います。やっぱり関心があれば、いつか花ひらくことになる。
面白かったのは、中村さんも、もともとは昆虫学をやりたいと思われていたけれども、医学部に進まれて、その後昆虫への関心から、アフガニスタンにたどりつかれて、いまこうして医療活動、人道支援活動をされているということでした。そのように繋がっていくということなんですね。
中村哲さんの学生時代の運動──暴力ではない道を
中村さんは学生時代、1968年米軍の原子力潜水艦エンタープライズ号が佐世保に入港して、それが核の持ち込みであることや、佐世保からベトナム戦争へ加担することになるとして反対運動が起こった時に、その活動に関わられていたとお聞きしました。こうした当時の学生運動と、私たちの活動はよく比較されたりすることがあるのですが、中村さんが関わっていた活動はどのようなものだったのでしょうか。
中村話せば長くなりますが、似た点と違う点があります。あの頃、原子力潜水艦がアメリカ政府の政策で、長崎の佐世保港に寄港しました。意図的に「日本人の核アレルギーを取る」と、堂々と宣言していた。その頃までは、長崎の原爆の余韻が人々の記憶に鮮やかでした。原子力と聞くと、みんな「なんてことを」というムードがあった。長崎の人は当然怒りますよね。日本政府はそれに対して、沈黙していました。賛成だと言えば、暴動も起きかねなかったからです。一般的な市民の感覚としては、当然猛反対です。あの当時私は、学生自治会の役員で指揮を執る立場でした。反対運動をする人たちを佐世保に送り込むのが任務でしたが、国鉄、今のJRが佐世保線をタダで乗せてくれました。その後、1968年6月2日、米軍のジェット機が九州大学の構内に落ちたことがありました。
2004年の沖縄国際大学での米軍ヘリコプター墜落事件を思わされます。
中村この事件で校内では意見が分かれました。ジェット機は何と、建設中の電算機センターの上に落ちて、宙づりになったのです。そのジェット機の残骸を工学部は、「早く降ろして建て直さないと九大は他よりも十年遅れをとる」と言い、文学部の方は「悪しき記念塔として、末代まで語り継ぐ」という意見でした。
学生の多数が文学部の意見に賛同し、私たちは実力で「記念塔」を守っていました。そうした流れの中で、ごたごたがあった。しかし、賛否を超えて、それなりに筋の通った論議だった思いますよ。科学技術の本質、暴力の是非、学問の意味など、本質的なことがずいぶん討議されました。ただその後、非常に先鋭な思想を持つ人たちが思想集団を形成して行き、「これは日本革命のきっかけだ」と言うようになっていた。そのへんが、私はついていけなかった。そのために内部で暴力抗争をし、教授を閉じこめて吊し上げる。自分たち古い日本人の感覚からすると、先生を吊し上げることなど、まずありえなかった。奪回すると「反革命だ」と言われる。それで、これは違った人種だと、距離を置くようになった。そういうことはありましたね。
何かおかしいことをおかしいというのは正しいことだけれども、それで暴力になるというのは…
中村国家の暴力=戦争と同じです。目的が暴力という手段を正当化するということはないと思います。
痛みに耳を傾けて、必要とされる支援をすること。
その後、先生は医学部を卒業された後、最初に医師として活動されたのは精神科医としてということでした。
中村そうです、精神科医です。
その精神科医としての経験が、中村さんが現地の人の心を理解しようとして、あくまでそこに生きる人々が必要とする支援をするという姿勢に繋がっているのかなと思いました。
中村それは大きかった。精神病患者の妄想は、事実とかけ離れた思い込みです。しかしそれを「おかしい」と決めつけると、対話が途切れてしまいます。おかしいとは思っても、それを聞くということでしか治療は成り立ちません。この経験は大きかったと思います。ある主張を頑と述べられても、それがその人の100%全てかというと、決してそうじゃない。その人の中にはそれに反対する気持ちもある。身の回りを気にするとか、追い詰められた気分とか、色々なことがあって、その時々に応じて、ある一つの主張が出てくるわけです。だから、背景を知った上で総合的に人を理解するという精神科医の訓練には、ずいぶん影響されました。
その人がなぜ、どのように苦しいのかをしっかりと聞くこと、それからその人が必要としている支えをする。その支えも、決して頭ごなしに一時的な答えを押し付けるのではなく、どうしたらその人自身が生きやすいようになっていくかをまず考えていくんですね。
中村そうです。それはあらゆることに通じると思っています。
時間をかけて共に生きる「政治」を作ること
まだまだ色々な事をお聞きしたかったのですが、最後の質問をさせて頂きます。今、日本では投票率が52%ほどだと言われています。この数字を見ると、人々の間で政治というものは、政治家の人に任せるものという感覚があるのかと思います。しかし、中村さんの話を聞くと、「政治」とは人任せに出来るような狭いものではなく、自分たちの生きる場所をちゃんと作っていくということ、誰かと共に生きることが出来るようすることだと思えます。そこで、中村哲さんが今の日本をめぐる政治の状況について、お考えになっていることをお聞かせ頂ければ幸いです。
中村後の時代になって正しいと思うことをした人は、いつも少数です。大抵の人は中間に居て、雲行きを見ている。白黒をつけられずに、灰色の中で暮らさざるを得ない人の方が圧倒的に多い。正しい者が天下を取るとは限らず、正しいが故に滅亡するということもあります。逆に正しかった者が後で暴君になるということもある。たとえ少数であっても、良いことは良いとして実行することですが、そうした中でも違う意見を聞き、誰とも仲良くしていく。これが大事だと思うね。一般的に言われている「テロリスト」だって言い分はあります。紳士の顔をして「テロリスト」以下のことをやっている国、政権だってあります。投票率が低いと言うけれど、まあ徳川の幕藩体制からまだ二世紀くらいしか経っていないわけで、いわゆる、良い意味の「個人」が確立するまでには、まだまだ時間がかかるのではないかと思います。そのつもりで、鷹揚にしていたほうがいい。「負けたからどうする」と言い出すと、つい過激な考えや乱暴な行動が出てしまう。
長い時間がかかるけれども、そして今は少数かもしれないけれども、正しいと思ったことをやり続けていく。そうすると次の世代になった時に育って、砂漠にさえ木が生え育っていく。
中村要するに、みんな気が短いんだ。「すぐに再起動」と、となっているね。
なるほど、長い目で考える、強い勇気をもらいました。今日は本当に、ありがとうございました。
中村はい。みんな、がんばってやってください。
1946年福岡市生まれ。九州大学医学部卒。84年から、パキスタンのペシャワール、アフガニスタン北東部を中心に診療を続け、2001年からは干ばつに見舞われたアフガン国内で井戸と水路の堀削と復旧、食糧支援なども行う。PMS(ペシャワール会医療サービス総院長)。著書に『医は国境を越えて』『医者 井戸を掘る』『辺境で見る 辺境から見る』(石風社)ほか。
ペシャワール会の活動は以下のホームページを、是非ご覧下さい。
2019年12月5日 追記
2019年12月4日、35年にわたり、アフガニスタン・パキスタンで医療・灌漑・農業などの活動をされて来たペシャワール会の中村哲さんが亡くなられました。用水路の工事現場へ行く途中、銃撃されたとのこと、やりきれない深い悲しみをいだいております。
ペシャワール会の活動が成し遂げていること、その活動を貫き支えた中村哲さんの「ことば」は、これからも私たちに力を吹き込み、この世界の荒廃を緑に変えていくと信じます。
POST編集部一同
【インタビュー・記事構成:神宮司博基、是恒香琳。写真:七田人比古】