日本国憲法が施行されてから70年。安倍政権は、憲法改正に意欲的な姿勢を示し、国民的な議論を呼びかけています。憲法をめぐる議論のなかには、70年を経た日本国憲法はもう古いのだという意見もみられます。しかし、敗戦の残り火の中で掴みとった日本国憲法の理念は、それほど脆いものなのでしょうか。
2016年6月22日、アフガニスタンから一時帰国した中村哲さんにインタビューへ応えていただきました。中村哲さんは、今も戦乱が続くアフガニスタンで干ばつと戦う「ペシャワール会」の代表です。中村哲さんは医師として医療支援のため、1984年にアフガニスタンへ渡りました。しかし、武器や戦車ではなく農業復興こそアフガニスタンの礎となると考え、白衣を脱いで、自らブルドーザーに乗り用水路の建設に乗り出しました。
長い戦乱と干ばつのアフガニスタンに必要な支援とはなんだったのか。アフガニスタンでの支援の現場において、平和憲法の理念はいかに機能してきたのか。また、イラク戦争への「参戦」以降、いかに日本の支援への目線が変わり、影響を及ぼしたのか。
日本国憲法の存在が問われる今、中村哲さんのお話は改めて、「平和」とは何か、日本がこれから歩むべき方向はどこなのかを考える機会を与えてくれます。
今回は後編をお送り致します。(2016年6月22日 収録)
アフガニスタンの大干ばつの現状。──そこに人が生きうる場所を作ること
アフガニスタンの現状についてお話を伺いたいと思います。2000年頃から干ばつがものすごく酷くなったというのは話に聞いていましたが、それが今かつてなく酷くなっており、人々が生活出来なくなっているほどであるのことでした。
中村酷い干ばつは、今も進んでいます。大きなニュースにならない理由は、復興支援や軍事援助で外貨がたくさん入って来て、国外から食糧を買っているからです。その結果、餓死者は減っているものの、飢餓線上の人が増えています。JICAや国連関係の調査によると、アフガニスタンの灌漑地の面積が減少しています。明らかに農地の乾燥化が進んでいます。飢餓人口も2000年には400万人と言われていたのが、今や760万人。ところが日本では、政治的な事件しか報道されないものですから、背景にある人々の困窮が伝わらない。
それは、地球規模での温暖化と関係しているということでしょうか。
中村確実にそうだと思います。私は山をずっと見てきました。最初にヒンドゥークシュ山脈に行った1978年には、雪線(夏に残る万年雪の線)が、確か3100だとか3200mだった。今は3600m以上です。この30年で、雪線が数百メートルも上がっている。これは大変なことです。温暖化によるものだというのは確実でしょう。
雨の降らないアフガニスタンでは、水の供給源として夏に溶け出る山の万年雪が人々の命を繋ぐということで、「金がなくても食ってはいけるが、雪がなくては食ってはいけない。」ということわざがあると講演でもおっしゃっていましたが、その水をもたらす生命線となる雪もなくなってしまっているんですね。
中村 その通りです。温暖化の影響は春の急激な雪解けとなって、しばしば洪水を起こします。そして秋に解けだす雪がなくなると、今度は突然河川の水量が落ちます。洪水と渇水の同居です。地下水も下がります。雨水と地下水利用の灌漑地は東部アフガンでほぼ全滅に近く、大河川では取水が困難になって灌漑ができないという恐るべき状態です。
従来の取水技術では歯が立たなくなっています。だから、「激しい水位差でも取水できる方法」が必要となった。近世日本で確立された方法が多くの人たちを救いました。それを今、広げる活動をしています。たとえCO2が下がるにしても、元に戻るにはおそらく50年、100年と長い時間がかかるでしょう。その間とりあえずどう生きたらいいのか、我々は考えます。
みんな同じ水を飲んでいる──共に生きることの「デモクラシー」
「これまで我々は一度も『テロリスト』の標的とされたことはなかった、というお話をされていたことがあったと思います。逆にペシャワール会の活動が現地の人々の生活を守る活動をしていることが知られているからこそ、時に「テロリスト」と言われる人たちからも活動が守られてきたというのは、やはり地元の人々との信頼を作ってきたからなのでしょうか。
中村そうですね。水は生命の源です。「テロリスト」であろうが、泥棒であろうが、毎日ご飯を食べ、水を飲む。善悪を超えて、水は生きる絶対条件です。狂信的な集団が政治的信条に基づいて行動しているのはその通りだけれども、事情の伝わり方が、少し違う。日本でも、同じ職場やクラスで、共産党だから自民党だからといって、反目し合うことはないじゃないですか。例えばクラス会の時に会ったら、そこは別にして、和やかにやっている。それと似ているんですよ。その地域に入ると、同じ家族から出稼ぎで国軍兵士にもなり、タリバンの傭兵にもなる。もちろん村全体として特定の勢力に対するシンパシーはあるけれど、中に入れば、敵対関係は存在しない。
人を何かのカテゴリーで分けないで、村の一員である、というところで共有する視点があるということでしょうか。
中村そういうことです。平和運動をやっている人にも時々「官僚というやつは」と言うタイプの人がいる。しかし、官僚として働いている人の中にも、決して今の体制がいいと思っている人ばかりではない。むしろ変えるべきだと思っている人も、たくさんいるわけです。そういう人まで色分けして、「あいつらは」と言うと、カチンとくるわけですね。そこで対話の糸が切れてしまう。
そうやって分けた瞬間に、対話の糸口が見つけられなくなってしまうんですね。気づかされるのが、テロ事件がある時にアメリカ政府、そして日本の政府は「テロに対して、毅然とした態度をとる」と言います。以前オバマ大統領は、「テロリスト」は、人類そのものの敵だという旨の発言をしていました。そこには同じ人間であるという視点はなく、対話することがそもそも出来ない相手であると最初からみなしているような気がします。
中村全くおっしゃる通りです。はじめから敵を作り上げている。そういう悪循環を強めることにしかなっていない。
その悪循環をどうやって抜け出すのか、ペシャワール会の活動の、一緒に生きる基盤を共有して作り上げることで、何とか生きられる状況をつくっていくことが大きなヒントだと感じます。
中村そうです。昔から「共に生きる」と言います。100人の人間が居れば100人の性格があり、一人一人個性がある。違っていても、一緒に生活できますよという基盤を作っていく。それが僕は、本来の「デモクラシー」なのではないかと思います。
改憲が変える、現地の支援活動への影響
これから7月に参議院選挙が待っているわけですが、新聞の報道によると、三分の二以上を与党が取る可能性が高いとのことでした。そのことによって自民党改憲草案による改憲が現実のものとなれば、9条だけでなく、日本国憲法の平和主義の理念が、変わるかもしれない分岐点にいます。11月には南スーダンへの派兵も決まっています。そうした状況の中で、ペシャワール会の方々の現地の活動に何か変化は起きるのでしょうか。(注:2016年6月22日 収録)
中村直ぐにはなくとも、やっぱり微妙に影響してくると思います。有事に自衛隊が出動するのは、過去にアフガニスタンにNATO軍が出動したと同じような状況です。前例がすでにあります。あれをやると、かなり確実に影響があると思います。
アフガニスタンにNATO軍が支援活動として出動した時に、現地の人々によるNATOの国々から来た救援隊への信頼は勝ち取れなかったのですか。
中村信頼どころか、ボロボロです。敵意を煽っただけです。だいたい、殺しながら「助ける」という法はない。うちでも、一人誘拐されて犠牲者が出てしまいました。もしあの状況で自衛隊が来たら、犠牲者が増えたでしょう。
軍事行動に消極的なことで、私たちは助かってきたのです。自衛隊が駆けつけ救護に行くとなっても、それをどのように指揮するかというのも、現地の人の必要に即して出来るのかというと疑問が残ります。
「正義」とは人の命を守ることである──憲法の理念
中村君たちは西部劇というものを見たことがありますか。
マカロニウエスタンとか。
中村マカロニウエスタンはまだマシです(笑)。アメリカの西部劇はだいたい決まったパターンで、白人が野蛮なインディアンを征服する物語です。野蛮人の巣窟に砦があり、勇敢な騎兵隊が出撃してインディアンを懲らしめ、危険に陥った白人を救出して砦に連れ帰る。このパターンです。今と大して変わりがありません。
なるほど、そうしたある種のフィクションというか、物語に沿って複雑な状況が単純に理解されてしまう。「悪くて、野蛮なインディアンを懲らしめる」という物語に沿えばあたかも全てが許されるような。
中村全くフィクションです。
しかし今無自覚にメディアを見ていると、そうした見方だけしか出来なくなって、そのある種の物語に沿わない報道に対しては逆に疑問を持ってしまうようなことが起きてしまっているかもしれません。そうした時に、「正しさ」や「正義」とはなんだろう?という疑問が出てきてしまいます。
中村「正義」というのは人の命を尊重すること。それが、憲法です。
「国が守るべき、根本のルール」という言葉の本当の意味での「憲法」ですね。人の命を尊重すること。その意味で言えば、敵を倒した者が正義なのではなくて、「敵」を敵ではない者に変えることが出来る可能性を持つのが、本当の日本の平和憲法の価値なのかなと思っています。
中村うん、そうだと思います。
中村さんが講演でも「丸腰が一番強い」というお話をされていました。
中村それも語弊があるんですけどね。見方を変えれば、現地の我々は「武装集団の一つ」とも言える。兵農未分化ですから。千人が我々と一緒に働いているとして、いざというときにはその千人は一緒に戦えるのです。日本人ワーカーがいた時も、見えない武装警護は常にあったのです。その意味では丸腰というのは語弊があります。
「丸腰」というのは、「こちらからは攻撃しない」ということですね。
中村そういうことです。誰とでも仲良くする。あるいは、諍いがあっても、武力を使わずに、交渉でなるべく解決するということです。
本当の意味で憲法9条はまだ、守られたことがない。
平和憲法を守る、集団的自衛権は必要ないと言うと、「攻撃されても何もしない」ことだと誤解する人が多かったです。攻撃を受け、守るため自衛の行動を取るのが個別的自衛権と、他の国が攻撃を受けた時に、その防衛に加わるのが集団的自衛権ですが、その辺りを誤解している人が多い印象でした。
中村そうですね。戦争の現実を知らずに勇ましいものに憧れる。好きなんですね。本当に故郷や家族を守るために戦うというならば、みんな狙撃の練習をして、ゲリラ戦に備えるくらいの覚悟がなくてはいけない。それがあるのか。私は敗戦直後に育ちました。当時はまだ戦地の生き残りが社会の中堅に沢山居ました。「わしらはお国の命令で戦った。御上がそう言ったから、自由を手放してまで戦地に行った。しかし、もうこりごりだ」という、実体験に根差した心情と、国家の戦争に対する懐疑が、憲法9条成立の背景にあった。
その後本当の意味では、私は憲法9条というのは、まだ守られたことがないと思います。いっぺん日本国憲法を守る努力をして、それから議論するべきです。
保安隊ができたり、警察予備隊ができたり、その都度の国際情勢で、言葉だけいじりながら、なんとかやってきた。しかし敵対条件をつくらないというのが憲法の精神で、それが一番いいんですよ。我々は誰とでも仲良くする。来ればどんな「テロリスト」とでも交渉しますよ。
中村さんの講演の中で、「どんな人にもある良心と手をつないでいく」という言葉がありました。
中村そうだと思いますよ。だから、同じことの裏返しでしてね。ある政治的主張だとか、グループの属性でその人を判断しないということです。