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【日露会談】①そもそも北方領土って?

文: 内藤翔太

今年の12月15日、山口県で予定されている日露首脳会談で領土問題が進展し、平和条約が締結されるのではないかといわれています。
2016年は日ソ共同宣言から60年目の年です。2016年の5月にロシアのソチで開かれた日露首脳会談で、安倍首相は北方領土問題解決に向けた「新しいアプローチ」をプーチン大統領に提示し合意されました。9月と11月にも日露首脳会談が行われました。
でも、北方領土問題とは一体なんなのでしょうか? この「北方領土」はいつから日露間の問題となり、解決されないまま今日に至るのでしょうか。順を追って見ていきたいと思います。

現在の北方4島

日本が「北方領土」と呼んでいる国後島、択捉島、色丹島、そして歯舞群島は、北海道の北東に位置します。この北方4島の中では択捉島が一番大きく、次いで国後島、色丹島、歯舞群島です。4島の総面積は福岡県や千葉県とほぼ同じ広さです。

国後には約7,800人、択捉には約5,900人、色丹には約2,900人のロシア人が居住しています。歯舞群島には民間人はおらず、ロシアの国境警備隊が駐在するのみです。

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第二次世界大戦とソ連の侵攻

では、北方領土をめぐる問題は、どのようにして今に至るのでしょうか?

もともと日本が第二次世界大戦に敗戦するまで、北方4島を含む千島列島(クリル列島)や南樺太は日本領でした。

その第二次世界大戦において、1945年8月9日、ソ連は1941年に日本と結んだ中立条約を破り、日本に宣戦布告します。そして、その翌月までに、ソ連は北方4島を含む千島列島と樺太を占領したのです。

ソ連が日本との中立条約を侵犯し、参戦したのには、アメリカの存在がありました。アメリカは1943年11月のテヘラン会談で、ソ連の対日参戦を要請します。その後、1945年2月のヤルタ会談で、アメリカは、ソ連が日本に参戦する見返りに、ソ連の南樺太と千島列島の領有を約束しました。

こうして、米ソの合意のもとでソ連は日本に宣戦し、樺太と千島列島を占拠します。

日本のポツダム宣言受諾とサンフランシスコ平和条約

1945年8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、降伏を宣言しました。このポツダム宣言には次のような記述があります。

日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ

つまり、日本の主権は本州、北海道、九州、四国と連合国側の決定する小島に限られるということです。

また、日本が署名したサンフランシスコ平和条約の第2章の(c)は以下のように書かれています。

日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する

つまり、連合国との平和条約締結にあたって、日本は、南樺太と千島列島の権限を放棄します、ということです。

このように、ポツダム宣言の受諾によって連合国に日本の領土が選定され、サンフランシスコ平和条約によって日本領に千島列島が含まれないことが確定されました。しかし、この「千島列島」の範囲の中に北方4島が含まれるのかどうかをめぐり、意見が分かれます。

1946年1月、連合国最高司令官指令(SCAPIN)第677号には、日本の範囲から除かれる地域として「千島列島、歯舞群島、色丹島」が列挙されていました。アメリカ代表としてサンフランシスコ講和会議に出席したダレスは、千島列島の範囲について、「歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります」と述べました。

講和会議に参加した日本の吉田茂首相は、色丹と歯舞は千島列島ではなく北海道の附属の島であるが、択捉と国後は千島南部とし、放棄した千島列島に択捉と国後を入れていました。

一方でソ連は、北方4島は千島列島の一部であり、日本では千島列島を北千島、中千島、南千島と区別して呼び、「南千島」の中に4島が入っていたと主張しました。

講和会議やサンフランシスコ平和条約のいずれよっても、千島列島の明確な定義がくだされませんでした。さらには、日本が放棄した千島列島がその後誰の領土となるかも未決定のままとなりました。千島列島のソ連引き渡しを容認していたアメリカの態度が一変したためでした。

千島列島を占拠していたソ連がサンフランシスコ平和条約を調印しなかったため、日ソ両国は国交回復のために、サンフランシスコ平和条約とは別に条約を結ぶ必要がありました。日ソが締結する条約の中で領土の帰属問題も解決しようとしました。それが1956年の日ソ共同宣言です。

しかし、日ソの接近を嫌ったアメリカの思惑によって日本政府の対ソ国交回復交渉にも影響を及ぼしました。次に、日ソ共同宣言をめぐる日米関係と日ソ国交回復交渉をみていきましょう。

日ソ国交回復交渉とアメリカの「恫喝」

1954年12月、鳩山一郎首相はソ連との国交回復を最重要課題の1つとしました。

その理由は、3つあります。まず第1に、日ソ間では外交関係がなく戦争状態が継続している状況であったため、一刻も早く戦争状態を終結させ、国交を回復することが重要であったからです。

第2には、ソ連に抑留されていた日本人の問題がありました。鳩山首相は、約1400人の日本人の帰国を望んでいました。
第3は、日本の国連への加盟の問題です。ソ連は国連の常任理事国であり、拒否権が与えられていました。日本が国連に加盟するにあたって、ソ連が拒否権を発動する事態を取り除く必要がありました。

こうした理由から、鳩山首相はソ連との国交回復を重視していました。そして、ソ連との交渉にあたっての重要課題の1つに、北方4島の帰属問題がありました。

平和条約締結の条件として、ソ連側は歯舞と色丹のみの対日返還を提案しました。日本側は、これら2島に加えて国後・択捉を含めた四島一括返還を要求しましたが、ソ連側は容認せず交渉は打ち切りとなりました。

その後再開される日ソ交渉において、日本側の全権として派遣された重光葵外相は、日ソの国交回復のためには国後・択捉の放棄もやむをえないと判断し、ソ連側の2島返還に合意しようとしました。

ところがそうした日本政府の方針に対し、アメリカのダレス国務長官が圧力をかけます。ダレスは重光に対し、「もし日本が国後・択捉をソ連に渡すのであれば、アメリカは沖縄をアメリカの領土とする」とおどしかけました。ダレスは谷駐米大使にも同様に圧力をかけます。

なぜ、ダレスは日本に圧力をかけてきたのでしょうか。それは、1950年の朝鮮戦争に始まる、東アジアにおけるアメリカとソ連の対立、冷戦の激化が影響していました。

アメリカは、もし日ソの領土交渉が妥結されれば、次に日本が返還を求めるのは琉球諸島と小笠原諸島だと考えました。事実、ソ連は日本に対し、2島返還の条件として沖縄と小笠原のアメリカからの返還を加えるよう主張していました。

日ソの急接近、ソ連の共産主義が日本にも広がることを恐れたアメリカは、日本をアメリカ陣営に帰属し依存させるためには、日ソの間に領土問題をめぐる確執を残しておくことが良い、それがアメリカの国益に適うと考えていました。

日本政府の変化と日ソ共同宣言

ダレスの圧力以前からも、日ソの急接近に警戒するアメリカの意向をくみとるようなかたちで、日本政府の態度も変化していきます。

条約調印後の1951年10月、西村熊雄外務省条約局長は国会で、サンフランシスコ平和条約で放棄した千島列島について、「北千島と南千島(国後、択捉)の両者を含む」と答弁しました。

しかし、この見解はその後変更されます。1956年2月11日の国会答弁で、森下国雄外務政務次官は、日本政府の統一見解として以下のように言明しました。

・サンフランシスコ条約で日本が放棄した千島列島の中に国後島・択捉島は含まれない。
・国後島・択捉島は日本固有の領土である。

国後・択捉の帰属をめぐって、日ソ両国は交渉の最後まで対立しました。しかし、国交回復を強く望んだ鳩山首相とソ連共産党第一書記のフルシチョフとの間で交渉が妥結されます。

こうして日ソ両国で署名された共同宣言の第9項には、次のように書かれています。

日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は,両国間に正常な外交関係が回復された後,平和条約の締結に関する交渉を継続することに同意する。
ソヴィエト社会主義共和国連邦は,日本国の要請にこたえかつ日本国の利益を考慮して,歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし,これらの諸島は,日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする。

つまり、「日ソ双方の主張がまとまらず平和条約を締結するところまでには至らなかったため、まずは日ソ両国の外交関係を築き、そして今後、平和条約締結に向けて交渉を続けていきます。ソ連は日本に歯舞諸島と色丹島を引き渡す約束をしますが、その引き渡しは、日ソの間に平和条約が結ばれた後に実行します」、ということです。

日ソ共同宣言では、国後と択捉の帰属に関しては言及されませんでしたが、共同宣言以後の日ソ間の交渉の中で、この2島も領土交渉の対象となっていきます。

日ソ間の戦争状態は終結し、正式な外交関係を築くことはできましたが、北方4島の帰属に関して両者は平行線をたどり、現在の日露間においても解決されないまま残っています。

まとめ

第二次世界大戦で連合国に敗れた日本は千島列島を放棄しました。しかし、ソ連がサンフランシスコ平和条約に調印しなかったため、日ソ両国は国交を回復すべく平和条約を締結し、曖昧となっている北方4島の帰属を明確にさせる必要がありました。

アジア地域における米ソの冷戦の激化によって、日ソの接近を警戒したアメリカは、日本が国後・択捉の返還を放棄しないよう日本側に圧力をかけます。

最終的に日本とソ連は、「平和条約」ではなく「共同宣言」という形で国交を回復しますが、北方4島の帰属が解決されないまま、それが「北方領土問題」として残されることとなったのです。

北方領土をどのような形で解決すれば日露双方とも納得いく結果となるのか、まだまだ課題は山積みです。

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