あの日から5年が経った。その期間が長いのか短いのかについて判断は分かれるんだろうけど、そいつが現れるのには少なくともそんくらいの年月がかかったってことなんだろう。ゴジラがやってきた。鎌倉の海から横浜の住宅街、川崎の工場群を経て、東京へ。
マヌケを正直に告白しておくと、最初この作品を観たとき、俺はほとんど原発事故のことなんてアタマに浮かばなかった。とりあえず驚いたのは、この作品の世界には、核兵器及びそれを生み出した人間のどちらをも批判する意図をもった記念碑的作品『ゴジラ』が存在しないということだった。ゴジラの細かい設定は物語のなかで独自に編み上げられていく。個人的には、この構想力だけでも十分見ごたえがあったのだけど・・・。
ゴジラの登場シーンはずいぶん醜いし、グロテクスなその容貌はネット上の多くの批評家たちの話題のタネになっている感さえある。別に俺は映画批評の専門家でもなんでもないし、その辺の細かい設定やらには突っ込まない方向でいこうと思う。そもそもあの監督は『エヴァンゲリオン』の頃からあまりに多くの複線的な何かをばら撒いては熱狂的なアニメ好きを着地点のない思索の谷に落としていった経歴の持ち主なわけだし、だからまぁ、多分細かいところを気にしすぎるのは、あまり生産的な試みじゃないんだろう。
*
それでもいくつか、書いておきたいことはある。まず、ゴジラを止める際にアメリカが核兵器の使用を提案するのだけど、それに対抗する代案としての氷漬けについて、グローバルな連帯が見られた。「人間」としての倫理、戦争やその後の核開発/投棄という人類共通の危機ないし危険への対抗は、リアリズム的主権国家の論理によってはなしえないのだろうか。概念としてもinternationalとglobalは異なる。ゴジラ討伐のための日本への核投下への反発心、祖母の記憶。
緊急事態条項。たしかにゴジラ対策を練るのは文字通りの科学的見地に基づく官僚やそれをリスペクトする政治家だし、こういう一部のエリートに多くを委ねておけば大丈夫っていうメッセージにも取られかねないギリギリさは確かにある。とはいえこの映画が一方で示しているのは、首相の権限を強めたところで大した意義はないということでもある。むしろゴジラ討伐に際し目立った(?)のは、新首相の地道な外交であったり、上にも述べた「人間」的な連帯であったりしたわけだ。
加えて、これは俺が神奈川の人間だからなのだけど、非常に腹がたったシーンが一つ。ゴジラが鎌倉の海からやってきて、北上し東京に向かう際、政治家たちは「神奈川を防波堤にする」といった発言をしていた。合理性の観点からすればそりゃ理解はできるけど、俺の地元をそんなふうに扱われるのは心外だ。しかし歴史を簡単に振り返るだけでも、たとえば沖縄の「地上戦」や原発誘致、公害など、いつだって引き起こした方へ登ってくる破局の盾にされていたのは、東京から離れた地方だった。今回はたまたま、比較的東京に近いところでゴジラが現れたに過ぎないわけで、そこで選ばれたのがたまたま俺の地元だっただけに過ぎない。もっともロケ現場となった川崎市は結構協力的だったようだし、実際迫力あるシーンでかなり楽しんだのだけど。
*
終盤のセリフにもあることだし、とりあえずこの作品の最終的なテーマを「ゴジラとの共存」であると言うことに問題はないだろう。この点はゴジラを殺した初作とずいぶん異なっている。
放射性廃棄物の処理を描く『100000年後の安全』って映画に今じゃすっかり原発反対派な某元首相が影響をうけたという逸話は有名だけど、それほどにまで気の長いくらいの時間軸で、3.11後の俺たちは核なり原子力なりと付き合っていかなければならないことになった。それは、ゴジラの氷体が東京のド真ん中に置かれる、みたいな分かりやすい話では決してない。
だけど放射能やゴジラが目に見えようが見えまいが、単に事実の問題として、この世界に放射性物質はあるし、原発も廃炉されずに残っていて、地球上には万単位の核兵器が残っている。氷漬けにするのと同じように、これらが瞬間的に破局をもたらすことをくい止めるような努力はすべきだし、また可能だろう。しかし、その破局を仮に避けることができたとしても、その爪痕は予告のようにそこにある。繰り返しになるが、これは単に事実の問題だ。このまま原発がすべて廃炉になったからといって、すべてが終わり、過去の出来事としてすべてが語りの対象となるわけではない。
あの日から5年が経ち、どうやら現政権は原発を止める気がほとんどないようだけど、もしあの日を境に何かが変わったと断言してしまうとするならば−もちろんあの日のみに変化のすべてを回収させるつもりはないけれど−俺たちの生きるこの社会は、こうした核時代という条件のなかでいかにして生存するかということと、さらに新しく生まれるであろう科学技術といかに付き合っていくかということを考えなくてはならなくなった、ということになるんだろう。原発を統制可能にするような技術の開発への期待があったところで、もうすでに科学技術の専門家による独占は認められなくなってしまった。どうやったってそれらは我々の生存に何らかの条件を課していて、それは我々の問題としなってしまっている。
これはどこぞの殿様よろしく「アンダー・コントロール」で済まされる問題ではない。我々の問題として、我々には抱えきれない問題として、我々の前に暴力的に提示されている。
いかにして専門知と付き合っていけばいいのか。この答えなりヒントが『シン・ゴジラ』のなかで描かれているかといえば、そこで頷く人は多くはないだろう。どうやったってこの作品は専門家や一部エリートを描いたものであって、市民やら人間やらは単に有象無象に過ぎないし、その辺については別稿で三浦くんが随分痛烈にdisっていることとそう意見が異なるわけじゃない。課題は目の前に、開かれたままで残っている。
*
あえて素人ながら映画の表現方法に触れるならば、それが官邸前であれ国会前であれ、デモのすがたは上空から撮られている。一人ひとりの顔は決して見えないし、身体も粒同士が混ざり合っているように映る。その意図はともかくとして、かれらは明らかに有象無象であって、個人の集合などではない。この作品において、彼らは、ただのかたまり、まとまりとしてのみ、ゴジラの侵攻という巨大な政治的破局の到来の物語(の、ダイジェスト)のなかで役割を占めるに過ぎない。
現場に立った奴だけが、そこにいる一人一人の顔を暗がりのなかでうっすらと認識し、照らされた個の声を聞くことができる。だけど勘違いしちゃいけないのは、照らされたっていうのは文字通りの意味であると同時に象徴的な意味合いにおいてもそうだということだ。ステージなり脚立なりに登り、ライトに照らされ、マイクを手に、練られたコールを、配置されたスピーカーを通じて発する。ようするに、これは作られた声なのだ。誰によって?−我々によって。そして我々が群れることによってその声や顔が注目を浴びる。数はかたまりを作り上空から映される。これは戦略の話だ。ここには作為がある。
しょっちゅう言われるように、代表制民主主義representative democracyで用いられる代表representの原義は再−現前化、ようは「ここにないものをあらわす」ということだ。有象無象の内容が個としてそれぞれ認識されることはない。だけど有象無象たる我々は作為的に、路上に存在しないはずの主体を立ち上げることができる。それは群衆のかたちをとることもあれば、路上で語る個人のかたちをとることもあるだろうし、また英語名のことだってあるだろう。国会に席を持つ一人の政治家であることだって。
なるほど三浦くんが言うように、本作の主役たちは市民とのつながりに欠けているし、事実そうなのだろう。でもだからといって、少なくとも表現として、あの路上で何かがrepresentされたことに何一つ意味がなかったというわけじゃないだろう。たしかにゴジラ討伐の政治過程において、少なくとも作中の描写を見る限り、デモに実際的な効果があるわけではない。なのにもかかわらずそれが描かれていたのは、3.11後の映画であるということを真摯に受け止める立場をとれば、すでに路上の揺らぎが、ああした政治的激震を描くにあたって決して外すことのできないものとなったからだろう。少なくともこれが3.11前ならば(もちろんこれはある種の語義矛盾なのだけれど)、あの路上の景色がそもそも映画に現れることはなかったはずだ。
*
とまぁ結局ウダウダと色々言ってしまったわけだけど、俺自身の感想としては、『シン・ゴジラ』は普通にメッチャ楽しい映画だった。やっぱり物をぶっ壊したり燃やしたりする映画っていうのは、娯楽としては悪くない。友達によると観に行った友達の感想の大半が「たのしかった~!!やばい~!!」だったらしい。「御社が破壊されて最高でした」みたいなツイートが流れてきたときはさすがにこの国やべえなって思ったけど、まぁそういう楽しみ方もあるんだろう。思うことがあるのなら話しあえばいいし、思うことを期待するのなら誰かと観に行けばいい。何も思わずとも、楽しめればそれでいい。
どんなに面倒なことを面倒な言葉で語ろうが、俺たちが生きているのはそういう世界だ。朝起きて、歯を磨いて、飯を食って、働いて、飯を食って、働いて、飯を食って、遊んで、風呂に入って、歯を磨いて、寝る。ただそれだけのことだ。諦観もせず、期待もせず、今ここにあるもので、うまくやりくりしていくしかない。著しい条件を課すこの世界で少しずつ前へ、ちょっとでもマシな方に。それは自由に似ている。