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【ネタバレ注意】シン・ゴジラ・レビュー ミウラvsゴジラ

文: 三浦翔

はじめまして、大学で映画の勉強をしたりしながら、映画を撮ったり、映画や文化について文章を書いている三浦です。

いまもまだ続く『シン・ゴジラ』大ヒット。3・11以後の政治や社会の状況を反映した映画としても好評ですが、あんまり好意的になれない自分がいます。ポイントのひとつは市民がどう描かれるか、ということにあると思うのです。今回は、そうした観点からこの映画の限界点を考えるためのレビューを掲載させてもらいます。

簡単に言ってしまうと、この映画はゴジラを原発や「核の脅威」に見たてて、日本がどのようにそれらの問題と対峙するべきか、という展開になっていると思うのですが、その意味は「未曽有の大災害を経験して、安保法制とかいろいろあるけれど、政府が機能不全に陥っても、日本的なチームワークでなんとか頑張っていきましょう」という映画だと基本的に言って良いと思います。しかし、ポイントは「誰が」頑張るのかということです。ゴジラと闘うのは全て専門性をもった特殊チームであって、即席のはぐれ者チームである矢口(長谷川博巳)率いる特殊チームも、基本的には官僚と大学の専門家たちの枠を出ません。対ゴジラ用の凍結剤を製造するのは大文字の企業であって、そこにいるはずの労働者の姿は映されないのです。主役はお役人たちです。

この映画でもっとも評価するべき点は、優秀な政治家がいない日本を厳しく批判した点ではないでしょうか。「つまらない」人間ドラマを排して日本の構造的欠陥を描いたのはよいと思います。しかし「これからの日本には優秀な若者がいるから大丈夫だ」「危機が日本を成長させるのだな」という台詞を残して、急に矢口チームがスーパーマン化して問題は解決されてしまいます。肝心なところで、ひとりの当たり前にいる人間であるはずの政治家の苦悩や、決断に至る複雑な思考を描き切れなかったこの映画は、結局、神話化の手法で問題を解決してしまったのではないでしょうか。

では、政治の可能性をどこに賭けて描くべきだったのでしょうか。僕の意見は、市民の描き方にこそ可能性があったはずだということだと思います。さらに言うと、3・11以後の政治を批判するならば、市民の描き方は不当だとさえ思うのです。

見たことのある国会前デモの風景が写り込みますが、聞こえてくるのは「ゴジラを倒せ」というコールです。この映画で描かれる市民は、ゴジラが来たら逃げるし、そうでないときはゴジラを倒せと応援するのであって、市民は無力な観客のように描かれているのです。

この構造は映画を見ている私たちに重なります。終盤、いよいよゴジラと最終決戦!というときには、ゲーム感覚のワクワクする演出によって盛り上げられます。無人在来線爆弾など、命がけであることを忘れさせるような、アクションに私たち観客の視線を集中させます。凍結剤を投与したのは誰なのか。その人たちが、死んだのかどうか描写が曖昧なため、観客は「もし自分や周りの誰かがゴジラと闘わなければいけないとしたら」という想像力を働かせる必要のない安全な場所にいることが出来ます。だからでしょうか、観客は心の中で「ゴジラを倒せ」と思いながら映画のスクリーンを見つめればいいことになると僕は思います。

しかし、実際の福島第一原発の周辺には未だに帰宅困難区域があって、あくまで確率としてしか分からない被ばくの怖さと付き合っていくために検査を受け続けているひとがいます。そして、実際に福島第一原発の後処理に携わっているのは民間人です。皮肉でしょうか、ゴジラの通った跡に残る放射能汚染についても「安全」とされたわけですが、被災者の生活から放射能の脅威が消えたわけではありません。放射能や核のような、よく分からないものと向き合うことは怖いことです。それは、外側の観客が熱狂しながら無責任に応援できるようなものではないはずです。

現実は誰かヒーローが解決してくれるほど単純ではありません。だからこそ、一人ひとりの人間が自分の気持ちや考えを持ち込んで集まる市民運動が起きたのではないでしょうか。3・11以後の市民運動は「ゴジラを倒せ」と言いながら、政府の動きを見ているだけの観客では無かったはずです。それは、国会議員でも何でもないひとたちが自分の身体を使って意志を表明し、一人ひとりが政治のプレーヤーであろうという出来事だったのではないでしょうか。政治家も同じ人間であるからこそ、市民と政治家が複雑な強い関係を結び闘っていかなければならないはずです。勝手に良い政治家が出てくるとは思えません。政治家は、市民が守り、育てないといけない。しかし、そのような回路は描かれませんでした。

映画の最後で、冷却によって活動停止したゴジラが東京に残ってしまいます。それは、まるで様々な矛盾を抱えた日本の姿そのままです。「ゴジラと共に生きていかねばならない」のは誰なのでしょうか。それは、政治家も含めた私たちのはずです。この映画の最後に残ったゴジラの意味を本気で考えるならば、私たちは観客として応援するのでは無くて「一人ひとりが孤独に思考し判断し」なければならないはずではないでしょうか。そのためにも、あの奇妙に突っ立ったままのゴジラの映像を頭の中に焼き付けておきたいと思っています。

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