“戦争責任をとるということは、言葉で謝るだけではなく、同じ過ちをくりかえさないように政治社会を作りなおすことではないだろうか。”——— p.159
戦争の経過。死者数の羅列。戦場の名前。それだけでは重要なことが切り落とされるだろう。そこには、違う背景を持った他の誰でもない一人一人が存在したという事。その戦争でそういった「個人」の命や尊厳が奪われた事。唯一の地上戦が行われた沖縄戦。そこから学ぶべきは、軍や政府という 「組織」が進めた戦争に、どのような「個人」が巻き込まれていったのかということだろう。それに対する想像力が同じ過ちをくりかえさないための社会を作る。
いたる
BOOK'S SELECTION
カタストロフからの哲学 — ジャン=ピエール・デュピュイをめぐって
渡名喜庸哲, 森元庸介 編著
以文社
2015年
“デュピュイによると、「未来」の必然性というのは、まさしくカタストロフが必ず生じることを現実的だとみなすということである。” ——— p.87(※「現実的」に傍点)
いつかは地震が起こる——私たちは「知っていた」はずだ。しかし「信じられた」だろうか。専門家は言った——こうすればリスクを軽減できる。しかし起こってしまった今、「事情に疎い」私たちは感じている——それは起こらざるを得なかったのだ。だからこそ、私たちはこの災厄と向き合わねばならない。未来から過去へ告げ知らせなければならない。私たちはこれからくる破局の前夜にいるのだ。「市井の」思想家デュピュイの「賢明なるカタストロフ論」への案内に。
羽鳥涼
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