2014年の衆院選は、僕が生まれてはじめて選挙権を手にした選挙だった。
気分の高揚がなかったと言えば嘘になる。
何しろ生まれて初めての経験だ、否が応にも好奇心が刺激された。
僕が小さな頃から、周囲の大人たちは選挙について、権利だとか責務だとか、そこまでではなくても、「まあ行くに越したことはないよね」ぐらいのことは言っていた。
だから僕は投票というものを、少なくとも行って悪いものではないらしいと思っていた。程度の差こそあれ、みんなが行くべきと言っていた。
しかし、投票所を後にしてみれば、それは実に後味が悪い経験だった。
僕は、なにか罪悪感めいたものすら感じていた。
果たして自分はこの国の、社会のためになる選択をしたのだろうか?
僕の選挙区には、積極的に応援したいと思えるような候補者がいなかった。
僕は消去法で票を投じた。
僕は熟慮の末、最善と思われる選択をした。
しかし、胸を張れるような気持ちはとてもしなかった。
少し話題を変える。僕は昨年安保法制に反対して、足繁くデモに通うことになった。
何度もデモに参加する内にわかってきたことは、どうやら僕は、デモというものが好きではないらしいということだった。
疲れる上に、愉快なことは特にない。スマートでもない。
おまけに、なぜかは知らないが、デモに行くたびに僕の胃はきりきりと痛んだ。
たぶん本当にデモというものが向いていないのだと思う。
それでも僕はデモに通った。
なぜかというと、いま自分が享受しているものに払われた努力を知ってしまったからだった。
例えば、僕はいま曲がりなりにも基本的人権を保障され、自由に生きることができている。
こうした状況は、この国の歴史の中で、時間が経てば植物が伸びていくようにもたらされたものではなく、数多の人間の犠牲と努力によって獲得された進歩だった。
敗戦があった、沖縄があった、安保があった、ベトナム戦争があった、開発があった、公害があった、労働問題があった、原発事故があった。
この国は幾度も、様々な問題に直面してきた。
その度に、この国のあるべき姿を求めて努力をした人たちがいた。
いまの社会がよいものだとは、とても思うことができない。
しかし、そうした先人たちの努力や苦闘の歴史を紐解けば、より悪い状況はいくらでも想像できる。
少しでもこの社会がよい方向に進歩するように、あるいは間違った方向に進まないように、彼らは努力してくれた。それは何よりも彼ら自身のためであっただろうし、僕を含む、後に続く世代のためでもあっただろう。
彼らはより良い社会を求め、その成果を僕までリレーしてきてくれた。
彼らが払った努力の賜物を、僕はいま手にしている。
そうした、先人たちの努力によってもたらされ、現在僕が享受しているものが、むざむざ破壊されようとしていることに我慢がならなかった。
彼らが払った努力を知っているのに、どうして自分が、日々の生活の余力だけでも努力を払えないことがあるだろうかと思った。
それで僕は嫌いなデモに通った。
選挙にしてもそうで、応援したい候補者も政党も見つからないかもしれないが、それは何もしない理由にはならない。
やはり次の選挙も、僕にとっては愉快なものではないだろう。
しかし、先人たちの払った努力を心得た上で消去法を試みれば、「少しでも良い選択はなにか考え抜いて票を投じる」以外の選択肢は消える。
だから僕は、重い足を引きずりつつ投票に行く。あなたはどうだろうか。
2016年6月7日 佐生佳